自分の専門に寄せて
今、栃木の学会に来ている。
いつもの大会だと、興味のあるものになんとなく行ってなんとなく質問する、というスタイルだったが、
今回は変えようと思って来た。自分の専門(と思っているもの)に関連なるものを聞き「考える」という風にしようと思ってここ小山へ来た。今自分の専門はリーディングである(と思っている)。とにかくここに寄せていこうと思ったのだ。
昨日、聞かせていただいた発表の題目は、
①「センター試験はそれほど悪い試験か?」
②「ポストリーディングタスクを通した語彙学習の検証」
③「英語学習者のプロファイリングに基づく自律学習支援の試み」
④「英語学習ワークショップが受講者の学習意欲に与える効果」
このラインアップで十分リーディングのことを考えることができた。
①では
妥当性の検証においてリーディングパートの検証、つまりリーディングの力の構成概念の因子の分析が聞きたかった、と考えた。
②では
ポストリーディングにおけるタスク設定では本文の再生を生徒に課すと(要約タスクより)語彙は入りやすいだろう、と考えた。
③では
生徒の自律学習には学習内容の選択をさせるだけでも効果がある、という主張に対して、リーディングマテリアルでも「選ばせる」という一手間がかけられると好ましい、と考えた。
④では
やはり、大学生でも高校ではリーディングは(スピーキングに比べて)しっかり学習されている、と考えているのか、と分かった(これは本当にそうか?、といういう意味で)。
今日も「寄せて」聞いてくる。
授業参観
この数週間の間に、縁あって二つの学校の授業を見せていただいた。
自分の授業と絡めて感想を。
授業内で教師が英語で口頭でのコミュニケーションを取らせようとしているかどうかは、もう教室に一歩足を入れた瞬間からすぐにわかる。
それは、必ずコミュニーションを取らせようとする匂いがプンプンとする授業が良いという意味ではないが、わかるにはわかるということ。
自分で毎日授業をしているわけなので、いい授業を作る困難さを理解した上で言うと、どちらの授業にもその反対への舵取りが見えなかったのが、ポイントかと思った。
つまり、コミュ重視の授業ではインプットの部分の細かさは見えなかったり、発音への配慮がほとんどなかったりした。(もちろん、その時間以外で何らかの対策をしているとは思うが、それを承知の上であえて書く)
逆もまた然りで、訳読や文法の明示的説明中心の「読解」授業では、コミュニケーションは終始皆無だ。
ひたすら、口頭でのやり取りで進む授業は見ていてもテンポよく進んで気持ちがいい。しかし、そこでの活動で語られる内容は、ごく幼稚なものであることが多い。教科書本文に関する英問英答であっても、それは単純な内容確認だ。ディスカッションをするにも、精神年齢的にはかなり落ちた内容を語ることになっている。あれでは、知的に好奇心が強い子にはかなり物足りないのではなかろうか。それでも、このような形態をとることで、生徒の英語を話す力、もっと正確に言うと「英語は使うのだ」というチャンネルはかなり強く刺激されている。
また、「読解」系の授業においては、言語活動がほとんどなく、知識の内化に終始し、外化がない。あれでは、せっかく習得しようとしている表現や文法が生き生きとすることはない。生徒同士の学び合いもない。しかし、ここでは難解な構文や抽象的な文章を扱うことで、知的好奇心を強く持つ子にとっては興味深いものになっているかもしれない。
自分でも、このあたりはかなり悩みながら授業を行ってきているが、今日強く思ったことは、現行でいうところの「コミュニーション英語」においては顕著だが、4技能を扱うために1つの題材というのにとらわれてはいけないのでは?という疑問だ。
どうせ内容の比較的浅い会話になるのであれば、それに使う題材はそれなりに平易なもの、「読解」を行うのであれば、少しチャレンジングなものを、いやかなりチャレンジングであっていいかもしれない(この辺りはどの学校にも当てはまることはないかもしれない、でも、何かを教えるということは、相手のあること、全員に「効く」授業方法などあり得ない)。これを一授業内で扱うことでバランスの良い授業になるのではないか、という気づきを得た。これは、実は自分の中ではもう等の昔に理解していたことではあるけれども(実践もしてきた)、確信になったと言うか、腑に落ちたので書き記しておく。
1つの教材を使って4技能を伸ばすのは、労多くして益が少ないのではないか。
『問い続ける教師 教育の哲学×教師の哲学』
- 作者: 多賀一郎,苫野一徳
- 出版社/メーカー: 学事出版
- 発売日: 2017/10/18
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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久しぶりに教育学の本を読んだ。日々の授業準備、そして雑務に追われていると、生徒を教育するとは?、という問いから自分が離れていく気がするからだ。
そういう深いことに思いが至らないで日々の雑務にかまけていると、それはその場その場の仕事こなしているだけになってしまう。本の中で苫野氏は言う。
学校での教師の言動には、すべて意図がなければなりません。
日々を過ごす中で生徒に向けて我々は大量の言動を浴びせている。その言動には「哲学」がないといけないのだ。その場その場をこなしているだけでは教育ではないのだ。
「哲学」とは「どんな大人に将来なってほしいか」という「思い」なのだと思う。私は生徒に将来「人間が大好きな、ポジティブな大人」になってほしい。
そのためには、人と話す力、人のいいところを探す力が必要だ。そのことを念頭に生徒と向き合うべきなのだ。
そんな振り返りがたくさんある本だった。苫野氏はこうも言っている。
「今、ここ」しか見られなければ、その場その場で起こるトラブルはただのトラブルのままです。
目の前のトラブル(生徒のです、保護者ではなく)は生徒の成長のためのステップ、もっと言えばチャンスなのだ。僕ら教員には「哲学」を伴った、先を見る目が必要なのだと思う。
教員なりたての頃の「哲学」は忘れてはいけないですね。
ということで、この曲。
『史上最悪の英語政策』雪は溶けた
- 作者: 阿部公彦,氏デザイン(装丁デザイン)
- 出版社/メーカー: ひつじ書房
- 発売日: 2017/12/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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読了。とても読みやすく、明快な本。
社会科の教員にも読んでもらい、感想を聞いたところとてもうまい文章で、面白かったとの感想。
僕も面白く読みました。
気になったところ、2点ほど。
1
TOEICのポリシーを批判する文脈で、筆者はこのテストが「語学学習の意義を「技能」の習得としかみない」ポリシーを持っていることを問題視しています。
では、TOEICやTOEFLがだめなら、現行のままで英語の入試問題はいいのか、ということになりますが、僕なりの答えはNOです。
授業で大量の入試問題を扱いますが、いい問題を探すのはなかなか大変です。今、様々な大学で問題ミスが問題になっていますが、
英語でも答えが出ないもの、答えが複数あるのではないかというもの、あると思います。というかあります。(信じられないくらいまとまりのない英語の文章を用いてどうしようもない問題を作る大学も多い。受験生をバカにしています。その文章、生徒たち暗唱したりもするんですよ。)
それと業者のテストを比べると、正確さは業者の方があるかもしれません。(もちろんいい問題の多い大学もたくさんあります)
でも、それで全てがいいかというとそうでもない。
スピーキングのテストがあるのは評価できると思います。
東京外大は自らスピーキングのテストを作る試みを始めました。
結論から言うと、もっと公(オオヤケ)感のあるところが、いい人材を見つめて本気で英語テストを作ればいいのです。スピーキングを含めて。
やはり、いくつかの業者が入試において極端に利益を上げるというのはいびつです。
2
次は安河内さんの「明るく楽しいスタイル」は評価するけれども、「公教育の場でこうしたお仕着せの「楽しさ」や「明るさ」が強制されることに」筆者が違和感を持っているということです。
この視点はとても自由を重んじる文学者らしい言い方だと思います。
筆者は生徒が学校で学習を進めていく上で、そのような「お仕着せ」を拒絶する権利を生徒は持つべきであると言っているのです。
楽しくあれ!明るくやれ!というのは「感情ファシズム」だと。
教師は時折、生徒の立ち居振る舞いに物申すことがあります。英語の授業でも僕は「教室中に声が届くくらいの声量は持とう」と言います。
これは、コミュニケーションをとる上で大切なことだと思うからです。彼らが成人しても大切だと思います。
でも、常に楽しげでいるというのは、なかなか大変。筆者は、そのような強制は「批判精神や分析力」をも奪うのではと危惧しています。
以上レビューでした。
最近東京はよく雪が降りますね。雪にまつわる歌ってたくさんあります。
最近はこの歌が思い浮かびます。東京の雪なんて映画一本見ているうちに溶けちゃいますが。
教師が教室にいる意味
前回のブログで少し書いたのだが、入試問題演習を授業で扱い始めると、断然「教師が教室にいる意味」を考えざるを得なくなる。
「問題やれ!」、「ハイ終わり!」、「ここの問題はね、、、」という形態でやるのなら、40人で一斉に授業を行う意味も、教師がそこにいる意味を薄れてしまうので、なんとかそれに抗いたくなるもの。そして、同時に教師がそこにいる意味を改めて考える必要性を感じるのである。
中学から高1くらいまでは、とにかく自分のやりたいスタイルで授業を推し進めていたので、僕がその教室にいる意味は当然大きくあった。勤務校は生徒の受験への意識が尋常ではなく高いので、演習をしないではいられない(ここはまだ議論が必要だとは思う)。その際、教室に教師がいる意味を見出し、そして生徒とのインタラクションがあればこその授業をしたいと強く思うのだ。
いつも思うのだが、何かを習得しようとするときに大事なのは、自分よりもその得ようとしているものが少しでも得意な人(ここではコーチと呼ぼう)がしてくれるアドバイスだ。そのものを得ようと努力をした人しかできないアドバイス。これが何よりも大事。それから、もちろんそのものを得るための基本的なストラテジーの知識もコーチには必要だ。
でも、これだけならいい教材を選んで、いい解説のプリントを用意すれば、コーチがいなくてもできる。プリントを配ってくれる人がいれば成り立つのだ。
そこで大事なのは、インタラクションである。生徒の個々の躓きに気づき、声をかけ、一緒に考える。自分の解説に含まれていないものにも対応する。生徒の表情を見て、理解度を見極め、次の問題選びに活かす。このことをしっかり授業でやればコーチがそこにいる意味は十二分にあるはずだ。
それから、音読。入試問題の演習問題には音源付きのものが少ない。そこで、教師の模範読みがあれば、またそこで教師の存在意義が強まる。コーチが声を出し、生徒と英語に触れ合う。
結論
入試問題を扱う際も教師の存在意義を求めるべき。とにかくインタラクションを大事にすること。わからないことについて声を出さない生徒にも声をかけるための努力をすること。音読もできる限り行うこと。3学期はこれに注意。
最近読んでいる本↓ 英語を教えていく中で、何を子供達に教えていけるのか。そして、我が子には何ができるのか。色々考えさせられます。
私たちは子どもに何ができるのか ― 非認知能力を育み、格差に挑む
- 作者: ポール・タフ
- 出版社/メーカー: 英治出版
- 発売日: 2017/09/06
- メディア: Kindle版
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3学期の授業に向けて
そろそろ3学期が始まる。
2学期は様々な授業形態を試してみて、うまくいったものもあるし、そうでないものもあった。
2学期が終わり、ホッとして冬休みは考えたいことだけを考えて、3学期をなんとなく始める。これではいかん!
ということで、2学期の振り返りと3学期の抱負を考えておきたい。
・学年経営を含め、教員としての心構えについて
金枝先生がどこかで、教員としての仕事はもっとプロジェクト的であってもいいのでは?と書いていた。
つまり、こういうことではないか。
自分の教育活動を行い、失敗成功を見極める。成功すればさらなる高みへ行けるし、失敗してもそれは教員としての人格が否定されたわけではない。教員の仕事は子供を教育するという人格的なぶつかり合いでとらえがちであるが、そのように深く考えすぎず、その失敗を分析し、次は違うアプローチで試してみれば良い。また、その際、チームワークも大事。一人で抱えるのではなく、力を出し合って皆で取り組むタスクとしてとらえても良いのでは。
こう考えると、人格と人格がぶつかり合う、などという難しいスイッチではなくトライアンドエラーで明るくやって行けるのではないか。(もちろん、教育者であるという自覚は必要かもしれない。でもそれは、教師が傷つきながら満身創痍では成り立たない人物像である。少しでも生徒に何かを伝えられるメンタリティーを作る努力をするためには、金枝的思考は大切である。)
・コミュ英の授業システムについて
週4回の授業を行う際、同じ教材で引っ張るより、メリハリをつけるため週2回を入試演習(後述)、1回を洋物のリーディング教材、1回をリスニング、速読演習にあてた。リスニング、速読はバリエーションを増やす役割を果たしたとして、入試演習と洋物の教材は結局メリハリがつかなかった。両者とも、問題を解いて、答えを出す、という形態になってしまうからだと考える。入試演習は練習の機能があり、洋物の方ではもっと英語を読むという方針のもとに授業をオーガナイズするべきであった。
入試演習はイントロ、演習、ポストリーディングという形態をとらずにもっと「入試的」な扱い方をすれば良い。
洋物のはpre,while,postをもっと意識して、様々な要素(speaking, writingも含め)に目配りをしたスタイルに。
3学期はそれで臨みたい。
・入試問題を扱うことについて
先学期は高2の2学期ということで入試の過去問を週に2回扱った。そして、一般的に行われるように、総合問題の形をとった出来合いの問題集を渡すのではなく、生徒の目線で教師が選んだ文章を読ませたいと思い、自分(達)で選んだ問題を選び、冊子を作成した。
良かった点は、こちらとして読ませたいものを選んであるので、教える側のモチベーションが保ちやすいということ。それから生徒の立場では、出来合いの問題集よりも教師が選んだ手作り感のあるものの方がやる気が出ているように見えたこと。
悪かった点は、ペース配分が定まらなかったこと。なるべく多くの英語に触れてほしい、演習量を確保したいという気持ちから、演習そのものは宿題、答え合わせを解説付きでなるべく簡潔に、語彙の確認。という流れで行なっていた。かなりのスピードをだして行なっていた。
英語の成績が中位以下の生徒にはわからないことが多い、無駄に進みの速い授業になってしまったかもしれない。
こちらとしては、本来の読解力を問うためには、読者の背景知識の多さに左右されるテスティングはよくないはず。しかし、現状の入試問題はよくも悪くも内容のそれなりに濃いものが多いため、読み手の背景知識が多いかどうかが、その文の理解度に大きく作用するのは否めない。それを踏まえて、文章を読んだ後に何か発見があるものだけを選にたい、という考えがあった。しかしながら、本来そういう背景知識の増強は母国語で行えばいいのだ。
とすれば、英語で面白い内容を扱うと同時に、英語そのものをしっかり扱う時間を設けないと片手落ちということになるだろう。
3学期は少し解説の時間を多めに設けて(答え合わせという時間以外に)行うことが必要だ。(この手のことは、解答解説が充実している出来合いの問題集ではやりやすいのかもしれない。しかし、それでは教師の存在意義は圧倒的に薄れるのだ。演習して、答えを配ればいいのだから。この辺りについては、またこのブログで扱いたい。)
コミュ英はこの辺りを意識することで3学期はトライアンドエラーを繰り返していきたい。
『謎解き英文法 動詞』 sufferとsuffer fromを巡って
英語表現の授業で、和文英訳も行なっている。
その際、自分が作った答え、教材付属の模範解答を自分がネイティブスピーカーに聞いて修正したもの、それ以外で生徒が解答しそうなもの、で自分なりの授業案を練るわけだが、それでも想定していなかった答えを生徒は書くものである。
その際も、自分の知識内で正誤、もしくはニュアンスの違いをその場で言えるに越したことはない(もしできなければ持ち帰るしかない)。
その際の知識のストックが教師として必要だ。
この間、この本を読んでいたからこそ、ある種のドヤ顔で言えたことがある。
こんな問題があった。
「今回は(その台風による)大きな被害がなければいいが。」
模範解答は
I hope we don’t suffer any heavy damage this time.
自分としては、この解答がすんなり出て来たし、他の可能性も考えて授業に臨んだ。
生徒の多くが
I hope we don’t suffer FROM any heavy damage.
と書いて来た。この答えは迂闊にも検討していなかった。。。
ここで、fromの有無で何が違ってくるんだろう、と生徒が言い出したのだ。
そこで、上記の本のことが頭に浮かんだ。
- 作者: 久野暲,高見健一
- 出版社/メーカー: くろしお出版
- 発売日: 2017/03/26
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この本では4章において
The cat scratched the door.
The cat scratched at the door.
の2文の違いについて語られている。
前置詞を取るパターンと取らないパターンの差異を説明してるのだ。
この違いは、前置詞なしパターンは目的語にあたるものに大きな影響があるということ、前置詞ありのパターンはそれほど影響がないということである。
このパターンが、授業でのsuffer, suffer fromにも応用できる。
病気の場合はfromを取るのは、「物理的に」何か大きな影響がないからだろう。
上の例で言えば台風が来て、家が吹き飛ばされればfromはいらないだろうし、その台風のせいで野菜が採れなくなって困ればfromありというところか。
英語の教師の自己研鑽は多岐にわたるのである。