教師が教室にいる意味

前回のブログで少し書いたのだが、入試問題演習を授業で扱い始めると、断然「教師が教室にいる意味」を考えざるを得なくなる。
「問題やれ!」、「ハイ終わり!」、「ここの問題はね、、、」という形態でやるのなら、40人で一斉に授業を行う意味も、教師がそこにいる意味を薄れてしまうので、なんとかそれに抗いたくなるもの。そして、同時に教師がそこにいる意味を改めて考える必要性を感じるのである。

中学から高1くらいまでは、とにかく自分のやりたいスタイルで授業を推し進めていたので、僕がその教室にいる意味は当然大きくあった。勤務校は生徒の受験への意識が尋常ではなく高いので、演習をしないではいられない(ここはまだ議論が必要だとは思う)。その際、教室に教師がいる意味を見出し、そして生徒とのインタラクションがあればこその授業をしたいと強く思うのだ。

いつも思うのだが、何かを習得しようとするときに大事なのは、自分よりもその得ようとしているものが少しでも得意な人(ここではコーチと呼ぼう)がしてくれるアドバイスだ。そのものを得ようと努力をした人しかできないアドバイス。これが何よりも大事。それから、もちろんそのものを得るための基本的なストラテジーの知識もコーチには必要だ。
でも、これだけならいい教材を選んで、いい解説のプリントを用意すれば、コーチがいなくてもできる。プリントを配ってくれる人がいれば成り立つのだ。

そこで大事なのは、インタラクションである。生徒の個々の躓きに気づき、声をかけ、一緒に考える。自分の解説に含まれていないものにも対応する。生徒の表情を見て、理解度を見極め、次の問題選びに活かす。このことをしっかり授業でやればコーチがそこにいる意味は十二分にあるはずだ。
それから、音読。入試問題の演習問題には音源付きのものが少ない。そこで、教師の模範読みがあれば、またそこで教師の存在意義が強まる。コーチが声を出し、生徒と英語に触れ合う。

結論
入試問題を扱う際も教師の存在意義を求めるべき。とにかくインタラクションを大事にすること。わからないことについて声を出さない生徒にも声をかけるための努力をすること。音読もできる限り行うこと。3学期はこれに注意。

最近読んでいる本↓ 英語を教えていく中で、何を子供達に教えていけるのか。そして、我が子には何ができるのか。色々考えさせられます。