授業参観

この数週間の間に、縁あって二つの学校の授業を見せていただいた。

自分の授業と絡めて感想を。

授業内で教師が英語で口頭でのコミュニケーションを取らせようとしているかどうかは、もう教室に一歩足を入れた瞬間からすぐにわかる。
それは、必ずコミュニーションを取らせようとする匂いがプンプンとする授業が良いという意味ではないが、わかるにはわかるということ。

自分で毎日授業をしているわけなので、いい授業を作る困難さを理解した上で言うと、どちらの授業にもその反対への舵取りが見えなかったのが、ポイントかと思った。
つまり、コミュ重視の授業ではインプットの部分の細かさは見えなかったり、発音への配慮がほとんどなかったりした。(もちろん、その時間以外で何らかの対策をしているとは思うが、それを承知の上であえて書く)
逆もまた然りで、訳読や文法の明示的説明中心の「読解」授業では、コミュニケーションは終始皆無だ。

ひたすら、口頭でのやり取りで進む授業は見ていてもテンポよく進んで気持ちがいい。しかし、そこでの活動で語られる内容は、ごく幼稚なものであることが多い。教科書本文に関する英問英答であっても、それは単純な内容確認だ。ディスカッションをするにも、精神年齢的にはかなり落ちた内容を語ることになっている。あれでは、知的に好奇心が強い子にはかなり物足りないのではなかろうか。それでも、このような形態をとることで、生徒の英語を話す力、もっと正確に言うと「英語は使うのだ」というチャンネルはかなり強く刺激されている。
また、「読解」系の授業においては、言語活動がほとんどなく、知識の内化に終始し、外化がない。あれでは、せっかく習得しようとしている表現や文法が生き生きとすることはない。生徒同士の学び合いもない。しかし、ここでは難解な構文や抽象的な文章を扱うことで、知的好奇心を強く持つ子にとっては興味深いものになっているかもしれない。

自分でも、このあたりはかなり悩みながら授業を行ってきているが、今日強く思ったことは、現行でいうところの「コミュニーション英語」においては顕著だが、4技能を扱うために1つの題材というのにとらわれてはいけないのでは?という疑問だ。
どうせ内容の比較的浅い会話になるのであれば、それに使う題材はそれなりに平易なもの、「読解」を行うのであれば、少しチャレンジングなものを、いやかなりチャレンジングであっていいかもしれない(この辺りはどの学校にも当てはまることはないかもしれない、でも、何かを教えるということは、相手のあること、全員に「効く」授業方法などあり得ない)。これを一授業内で扱うことでバランスの良い授業になるのではないか、という気づきを得た。これは、実は自分の中ではもう等の昔に理解していたことではあるけれども(実践もしてきた)、確信になったと言うか、腑に落ちたので書き記しておく。


1つの教材を使って4技能を伸ばすのは、労多くして益が少ないのではないか。