Google翻訳と授業

現在、コミュ英の授業でプレゼンの準備を生徒に行わせている。

 

検定教科書(Pro-Vision II, Lesson 5)で読んだ、俗にいう「いいデザインとはカッコいいデザイン」という固定概念を捨てて、「いいデザインとは人間が抱えている問題を解決してくれるデザイン」という考え方にも目を向けよう、という趣旨のレッスンを踏まえて、「問題を解決」できた(できそう)なデザインを探して、それを売り込んでみようというもの。

 

イメージとしてはこういうものかな。

 

https://greenz.jp/2009/04/20/designfortheother90percent/

 

そこで感じたのは、やはり生徒たちにiPadを持たせている以上、Google翻訳などの使用を認めざるを得ないこと。我々教師が行うのは、そういったものの使い方をしっかりと教えることだと思った。

 

生徒たちは英語で良いサイトを見つけて、それを利用してプレゼンを組み立てる。当たり前だ。日本語のサイトだけを見て、英語は自分たちで考えよ、などという指示はナンセンスであろう。

 

もしそれがナンセンスではないと考えるなら、そういうものを使わせない、ではなく使う必然性がない活動をさせなければならない。

 

生徒がiPadを使っている様子を見ていると、良い英語サイトを見つけ、全文をGoogle翻訳にかけ、内容を掴み、使えそうな英語の部分を確定し、それをしっかりと精読する、という手順をとっている。うん、正しい使い方です。しかもこの翻訳の能力はとても高い。以前とは比べものにならない。。。

 

教師の腕の見せ所は、どういったサイトの信頼性が高いか、またそのサイト上の英文のどういう部分を使うべきか、難しい英語をいかにして簡単な英語にパラフレーズするか、などというもう1段階高次のアドバイスをしていく必要がある。

 

ただ、英語の文を解析するなどという授業をひたすら行う等の実践は、英語を取り囲む環境という大きな視点で見ると甚だ危ういものであることが実感できる。

 

下の本でもGoogle翻訳の利便性に触れながら、教師はAIに駆逐されるか、という議論をしている。(結論はそう簡単にいかない、ということになっている) 

10年後の仕事図鑑

10年後の仕事図鑑

 

 

この視点を持たずにアクティブな授業に関して考えても無意味である。つまり、英語というツールをこの現代でいかに使うかという視点だ。 

 

教師はそのあたりに柔軟な考え方を取り入れないと、下の動画内で語られる「神経症的」になってしまうのかな、なんて思う。

 


【落合陽一 宮台真司】 新時代どう生きるか 2019/6/5 part1