『ことばの教育を問いなおす』鳥飼玖美子 刈谷剛彦 刈谷夏子

 

 

この本は初めてiPadを使って読んだ。隙間時間に読めるので(というか、他のやらなければいけないことをやるときに思わず読んでしまう…)、あっという間に読み終わる。

 

世の中がこんな状況なので、モノの本質に目がいってしまうことも多い。学校とは? 授業とは? なんてものも含まれる(遠隔授業が流行る昨今、対面授業って何よ? とか 入学式はライブ配信でなんてなって、式典って何よ? とか)。

 

刈谷夏子氏は大村はまの教室でこういうことを学んだと言う。

 

ことばと向かい合う時に、今自分の考えていること、感じていることを表すのに、このことばが最適か、しっかりと伝わるか、表しきれないものがないか、余計なものまで表していないか、そんなふうに目を向ける習慣を身につけたことでした。

 

もちろん英語を教えることも「ことばの教育」なのだから、上記のような目的をもつこともできる(もたなければならない)。でも、外国語だからまずは使えるように、いう目標が先立つようにもなる。ことばの大切さなんて、母国語でやればいいっていう議論も出てくる(新指導要領では国語、英語の連携の必要性についても記述がある)。

 

自分なりに英語の教え方については勉強しているつもり。「ことばの教育」上、どんな目的を持って授業を進めていくのかというあたりが自分では曖昧になりつつあることを、この本を読んで感じた次第です。

 

これを読んでくれている英語教員の方々、皆さんはなぜ英語を教えているのですか?

 

僕はやはり、(自戒をこめて、そしてそれを共に追い求めるために)言葉を相対化させて、言葉への感性を養って欲しいのだと思う。言葉なのだから、独りよがりではなく、「相手に」(ここが英語教育に欠けた視点)過不足なく(そして欲を言えば気持ちよく)情報が伝わるかを考える。「相手が」何を言わんとしているのかを考える。母国語しか操れないのであれば、気がつかない視点を外国語学習を通して感じてもらう(もっと言えば外国語学習でなくとも、モードが違う言語形態ならいい、短歌とか俳句とか)。

 

授業を毎日毎日行なっていると、このやり方が「うまくいく」、「うまくいかない」という観点が全面に出てきてしまう。次々と目の前に現れる生徒たちの楽しそうに、興味を持っている顔を見たいですもんね。

 

でもやはりこちらの大きな目標に貫かれた授業がしたいですね。

 

なんてことを考えさせてくれるいい本でした。(鳥飼さんの書かれた部分は、彼女の本をそれなりに読んでいる人には、冗長です)

 

でも言葉って面白いのは「雰囲気」に大きく作用されるってこと。その人の語る内容よりも、その声や表情で心を動かすこともできちゃう。これに頼るのは汎用性がないから注意ですけど。教室では教えられない。教える必要もない。この動画はそういう感じでしょうか。

 


志村けんさん 名言