「理解」の先にあるもの

5月から教員の人事の関係で急にコミュニケーション英語の授業を持つことに。
1学年を3人の教員で担当することになった。

そこで思ったこと。

いわゆる英語が頭に沁みていく作業は当然行いたい。トピックに関連した、何か表現活動もしたい。
でも、結局は、扱う英文を「理解」したのちにその手のことは行われるべきなんですよね。
じゃあ、ある程度まとまった英文を「理解」するとはどういうことなのか?

これをずっと考えた。

全文和訳? 違う。和訳できても、本文の要旨が言えない生徒はいくらでもいる。

単純な(fact-finding)英問英答に答えられる? いや、該当しそうな英文をそのまま抜き出してしまえば答えられる。

英文のサマリーが書ける? いや、これも評価として使うことができるとしても、理解を深めための最良の手段ではない。文の丸写しで終えてしまう生徒がいるからだ。

こんな風に考えてやってみた。

まずはinference questionをしてみる。単なる和訳ではない質問をぶつけてみる。その中で生徒の理解を深めていく。

それからパラグラフ、もしくはそのパートにタイトルをつけてみる。そのタイトルをもとにパート、パラグラフの構成を考える。どれが主張でどれがサポートなのか。そのあとでその読みに合わせて英文の構造のとりにくい部分のみを解説して行く。

最後は意味の塊を意識した音読。

ここまで来れば理解できたと言えるのではないか。
語彙や文法の定着はもちろん時間があればやるべき。ただ、これには終わりがないので時間の許す限りやるしかない。サイトラや対面リピートも時間があれば行いたい。結局時間の許す限り「それなり」にやるしかないのだ。

理解の及んでいない英文を読めたことにして、活動に移行しても、それは上滑りの授業である。

最低限の「理解」は担保する授業でなければならない。

そうそう、こんな本を読んだ。やはり凄まじいな。昔読んで「理解」するのに苦労したが、今回も「理解」するのに、そして消化するのに体力を使った。。。

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

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