『英語化は愚民化』 施光恒

かなりひさしぶりの更新。あけましておめでとうございます。

話題のこの本を読んだ。

施氏の主な主張で面白かったのは、この点。

ヨーロッパの近代化を推し進めた原動力の一つには、ラテン語に集中していた力を翻訳によって土着語に取り戻したことがある。今、まさに日本が進んでいこうとしている、グローバル戦略とは、これとは真逆で、小さな社会が大きな世界へと統合されていることが人類の進歩であるという見方に立っている。その先には英語に力が集中し、日本語という土着語の存在を脅かされ、日本の国力が著しく削がれていってしまう。

この考え方はとても面白い。今自分が直感的に不安に思っていることを言語化してくれているようにも思える。

でも、現場で英語をしえる立場としては、どのように考えればいいのだろうか。

やはり、英語を教える際にバランスを欠かないようにする心がけがとにかく必要だ。ということであろうか。

外国語を学ぶということは、この世界で生きていく上では欠かせないはずだ。違う言葉を話す人がいて、その人に心を寄せることで、自分以外の人間への認識が芽生える。その際、英語である必要性があるわけではないが、ここまで幅を利かせた英語にしておくのは必然性があるともいえる。

しかし、施氏も本書で言っているように、言語がその人間の思考に大きくかかわるのは当然のことであるから、英語は単なるツールである、という陳腐な言葉で、日本の中枢を英語に明け渡してはならない。(施氏は大学の授業を英語で行うなどを例に挙げている)

英語教師は英語の授業で、外国語を使う楽しみを教え、語学の深さを教えればいいのだ。そして、英語を使うことができる(いろいろな要因で)者だけが得をする制度を作り上げてはならない。そのためには多角的な評価方法も考える必要もある。日本のまじめな英語教師が今、色々なところで議論しながら、英語の授業をよくしていこうという営みは、上記のようなグローバル史観に与しているわけではないと信じたい。

英語教師なら必読の書である。

この曲を思い出しながら読んだので、この動画も。