音読すればそれでいいのか


画像の冊子、アルク作成のものだが、これがおもしろい。
煎じ詰めればアルクの製品を使え、ということになるのかもしれないが、よくできた冊子である。ただで購読できるのでこれは読むべき。

この冊子の中で大東文化大の靜氏がこう言っている。

文字を見たときに頭の中でリズミカルな音声が飛び交う状態でなければ、精読の力も速読の力もたかが知れています。音読ができて初めて速読も精読もできるのです。音読できない精読は「読み」とは呼びません。暗号解読です。

言葉の成り立ちから言っても、音を表記した文字から音が想起されないのはうそだ。この前提に立ち、その音読を成り立たせるための単語単語の発音をしっかり練習させ、文章の音読につなげていくのはとても大切なことである。

しかし、最近の英語教育の風潮として、ただ声に出して、回数多く読めばそれでいい、という流れがあるような気がしてならない。
いくら、CDの速さと同じように読めても(時にはそれよりも速く)、授業内でやり方を変えながら何10回も同じページを読めてもそれ自体にはあまり意味がないように思うのだ。その後の読解、そしてその後のフレーズを意識した音読。これの繰り返しで初見の英語でも頭の中でリズミカルに英語が鳴る力がつくのだ。

生徒が一生懸命ひたすらshadowingする姿は、一見意味ありげに見えるが、その見た目にごまかされてはいけない。生徒の頭には何も残っていないかもしれないのだ。