日本の英語教育を阻むもの

なんだかいつも入試問題について文句を言ってばかりだが、ご容赦いただいて。

やはり日本の英語教育の行く手を阻んでいるのはどう考えても大学入試である。

日本人は真面目である。
オーケストラの演奏は国民の傾向をある程度示していると思うが、日本のオーケストラはとにかく優秀である。器用である。演奏が真面目である。癖がないが技術的にも器用である。

日本人は目の前のことに真摯にしっかりと取り組むのである。と、あえて乱暴にまとめてしまうが。

大学入試の問題がこうだと日本の教員はそれに対応すべく真面目にその問題への対策を考えるのである。生徒にいい点を取らせたい。その問題がどれほど変な問題であってもだ。

昔はネイティブスピーカーも少なかった。であれば、文法のような比較的答えが定まりやすいものを突き詰めて行くことになる。今もそのなごりは消えずに、残る。つまらない細かな点を問う文法的な問題が増える。長文の中であってもだ。

この循環を断ち切らねばならない。

日本人の教員は、やれることを粛々とやればいい。入試問題を躍起になって説明することはどうでもいい。
入試問題も含めてネイティブスピーカーと力を合わせて、彼らにはできないことをやればいい。そんなことはたくさんある。彼らが解けない問題は問題に値しないのだ。
何にでも真面目に取り組めばいいというわけではないのだ。そしてできないことはできないと言うことも真摯な態度のはずである。